大好きだったおじいちゃんが2月26日、日曜日に亡くなりました。 98歳でした。
亡くなる前日に救急車で運ばれて24時間経たないうちに逝ってしまいました。
今までにも何度となく意識がなくなったりで救急車で運ばれたことがありましたが、いつも救急車の中での処置中に大きい声で叫び出し、病院についたころには暴れるのでかえってくださいといわれて点滴だけして帰って来たこともありました。 2年前に入院したときは夜に徘徊するということで常に誰かが一緒に泊まるようなこともしていました。
何度かこういうことがあったので、98歳といっても本人は100歳まで生きるっていっているし、そのうち元に戻って帰っきてくれるだろうってどこかで思っていました。
まさかこんなにも早くいってしまうなんて。
入院した次の日の朝3時に電話があり父親と母親が病院に行きました。その時は自分は耳栓をしてねていて気づきませんでした。
帰ってきた母親からもうあぶないかもと聞きます。 なんのことかよくわからんけど、そういうことかとぼーっとしながら支度をしました。とにかく行かないと。
祖母と2人で病院に向かいました。
すでに話しかけても反応はなく体温は測れないほどに低くなっていました。血圧も80と40くらい。
呼吸は酸素をいれてもらってやっとという感じでした。
心拍は安定していたので一旦帰ってからまたこようと帰り少し寝ました。 というのもここ数日の祖父は体調を崩していて正直家族の疲れの限界もみえ、病院へいれてもらう手続きを終えた矢先のことでした。
朝の10時くらいに従兄弟のおばちゃんから電話で早く来て!といわれいそいで病院に。いや。いそいでといってもどこか冷静に向かいました。
自分たちがつく数分前にすでに息を引き取っていました。
この時がきたんだ。
10年以上も前からこの日が来ると用意はしていました。やり残しのないように感謝は伝える。してあげたいことがあったらする。などなど。
用意は常にしていたと思っていましたが、、、
こんなに早く、、、
病室にいるみんなで泣きました。
家の人間が亡くなる経験は初めてだったのでここからが長くなることは知りませんでした。怒涛の5日間がはじまりました。
家の準備をしないと。祖母と一緒に帰り、すぐさまおじいちゃんの布団の用意。人がくるので掃除機をかけたり身の回りのものを適当にそのあたりに放り込みました。
祖父母の部屋には変わらずおじいちゃんが寝ていたベッドがあります。 いつも左肩を下にして寝ているおじいちゃんが見えます。
涙が出て出て止まりません。
おじいちゃん、おじいちゃん、と涙が流れるままに構わず動き続けました。
これは現実やけどなにがなんだかわからない。
しばらくすると冷たくなったおじいちゃんがドライアイスにつつまれて家に帰って来ました。
病院で触った時はまだ熱いくらいに熱かったのに。触ってみると冷たい冷たい顔でした。
その日の夜はおばあちゃんと2人でおじいちゃんの部屋に寝ながら渦巻きの線香と40分くらいしかもたない線香を絶やさないために見ながらすごしました。
祖父が亡くなった次の日、この日も線香は日中も絶やさずに面倒をみます。
大事なものをいろいろ片付けている祖母が泣いていました。
見ると大事なもの入れの文箱の中に自分が10数年前にオーストラリアから祖父の85歳の誕生日に書いた手紙が入っていました。 こんなところに入れて大事にしまってくれていたんや。
たまらなかった。 嬉しくてしょうがなかったです。 ここでもまた「おーいおいおいおい、おじいちゃん、、、」
こんなんはいかんと本気で思いました。
祖母に、親にもこれはせんといてなといっておきました。
亡くなってからこんなことしてくれてたんやとか。 感謝伝えたいのに伝えられへんっていうこれはほんまにいかん。
胸が苦しくて苦しくてしょうがない。
その日の夜は最初から自分が線香の面倒はみるということで祖母には最初から寝てもらいました。
30分おきに起きて線香を変えては寝て、変えては寝て。
そして次の日はお通夜が夜の7時から。
祖父が70年以上住んだこの家から出て行きます。
納棺師の方がきておじいちゃんを洗ってくれました。 そのほかにもなにか珍しい道具の説明や匂いがどうのとかの説明がありましたがよく覚えていません。ただ、映画の「おくりびと」のように優雅に手慣れた手つきで大切に身体をあらってもらえました。
感謝で自然に頭がさがります。
棺桶に入るため、最後のおじいちゃんの体に触れれる機会。
小さい時には教育的指導!でよく叩かれた手。きれいなきれいな字を書くことができる手。 意識が遠のく前にぐっぐっぐっと俺の手を握ってくれたおじいちゃんの手。
納棺師さんには本当に大切に大切に扱ってもらえました。
そしておじいちゃんを見送りました。
さっきまで寝ていた部屋におじいちゃんはもういない。
葬儀場に向かい6時過ぎには挨拶のために立っておかなくてはなりません。
バタバタしながら来ていただいた方を迎えます。 ほとんど知らない人たちばかりでしたが祖父のために来ていただいた。
感謝をお辞儀にできるだけこめます。
そしてお通夜。 全く予期していなかったことが起こります。
喪主である父親が参列者の方々にお礼の挨拶をしました。
「父は大きな病気はせず、亡くなる前日に入院に、、」
ふと父のスピーチがとまります。
いうことを忘れたんやろうか?
違いました。
父親が泣き出しました。
たぶん祖父のことを「父は」なんていったことは半世紀ぶりくらいやなかったんでしょうか?
生前、あまり話をしていなかった2人でしたがお葬式で、最後の最後で泣いちゃったんです。
感動しました。
「おじいちゃん。 おとんが泣いたで、、、、、、」
生きているときに、、、、見せてあげたかった。 もし見ていたらおじいちゃんどんな顔して何をいうたやろうか、、、?
おかんとおばあちゃんはきっとおじいちゃんそれを見てたでっていっていました。
そうあってほしいな。
父親に次の日にどういう気持ちで泣いたん?って聞きました。 その感情を言葉にしたらなに?
「無やな」といっていました。 あたまに「がつーーーん!」としたものがおちてきて気がついたら泣いていたと。
祖父に頭をなぐられたようだったと言っていました。
おじいちゃんと寝られる最後の夜は葬儀場で泊まりました、、
考えたら一緒に寝るということはしたことがなかったなあ。 たぶん小さい時はあったけど。一緒に寝たりしておけばよかった、、
もっとこうしていたらよかった。というのが限りなくでてきます。 やりすぎることはないんでしょうね。
布団の中でおじいちゃんが入っている棺桶の方をみながらいろんなことを思いながら泣き続けました。
そして葬儀の日。
本当にたくさんの方々が来て下さいました。
新聞にのせていなかったにもかかわらず170人もの方が参列してくださいました。
お葬式は大きなものでお坊さんが9人。葬儀場始まって以来のことだったそうです。
お葬式の残念なところは当たり前なんですが、本人が見られないというところですね、、、
疎遠になっている友人がきてくれたり、誰がどれだけ思いをもって泣いてくれたとか。 まあ、たぶん上のほうとかでみてくれている?んでしょうけども、、、、
どんな顔で喜んでくれるのかとか。 顔をみてみたいし、話を聞きたいです、、、、
お葬式の初めにはスライドショーを美空ひばりさんの”川の流れのように”とともに流しました。
おじいちゃんの昔の写真、お祝いの写真などや自分が撮っていた写真約20枚をつかい、そこに母親がコメントをいい感じでいれてくれたものです。
昨日、涙腺が完全にこわれた父親がこの時点ですでに泣いていました。
最後のお礼の言葉では「本日は、、、」でとまりました。
横にいた母親が「早っ。」と小声でぼそっと言いました。
こうなることを予期していた父親が進行の方にもしもの時をお願いしていたので読んでもらいました。 川村さんありがとうございます。
従兄弟のおばちゃんが自分が読むようにと声をかけてくれましたが、当然父親よりもずっと前から涙腺の蓋をなくしている自分にたのんだところでまともな言葉が話せるわけもなく。。。 進行の方に頼んでいてほんまによかったです。
そして葬儀がおわりました。
火葬場へ。
最後のお別れをし、待つこと2時間。
完全に灰になった祖父がでてきました。
98歳とはとうてい思えないほどにほとんどの骨が綺麗な状態で残っていました。 大腿骨の立派な骨。 頭蓋骨は丸々のこっていました。
30人くらいがその骨を囲って骨壷にいれていく作業、、、、淡々とすすむ。
ここまでなんだかんだで元気だったんですが、、、、。骨になり、その骨を淡々と崩しながらなにやらと説明をうけているこの違和感に頭がクラクラして。 気分がわるくなりました。。
おじいちゃんの頭は最後にわられ、それを骨壷の最後に被せるようにして置きました、、、、、
悲しいというよりも。 なんともいえない違和感と気持ち悪さがのこりました。
骨壷に骨を収める経験は初めてではなかったんですがこの日はちがいました。
最後にまた葬儀場にもどり初七日をし。 全ておわりました。
最後に葬儀屋さんが母親にこんなことを言ってくださいました。「長い間この仕事をしていますが、こんなに心のこもったお葬式は初めてです」と。 また涙。
100歳の大往生で亡くなった祖父のことを思い70前の息子が泣き、母が泣き、孫が泣き。親戚もみんな泣いている。これ以上の供養はないですね。
家に帰るとほんまにもうみんなヘトヘトで。
つかれきったとはまさにこの状態だなと、、、
おじいちゃんの望み
祖父が10年くらい前に紙に「家族みんなで一丸となって団結してやっていく」というようなことを書いていたのを覚えています。
祖父は社会貢献に生きた人でした。
島根県から帰ってきてすぐに、祖父とこんな会話をしました。
「家族で支えあって仕事していくで。 団結してやっていくで。 自立することは1人でしなくてもいいんやってわかってん。
大丈夫やで。と。 そして感謝してるで。 おじいちゃんの背中みてきたからな。」と。
この数週間家族の距離が前にも増してものすごい縮まったというか、変化がたくさんありました。
祖父が病院に入った日から、家族がそれぞれできることをそれぞれの形でそれぞれの役をそれぞれの考えのもとやっていたのをみて。。。
これが祖父が求めていたことなんだろうなって。 なんとなくそう思いました。
本当に祖父がいろんなものを運んでくれました。残してくれました。そして、これからたぶん一生をかけて祖父の偉大さに気付くんだと思います。
人は亡くなった時にその人の偉大さがわかるって誰かがいっていましたが、ほんまにその通りでした。
欲のない人でした。物欲がなく、祖母が買ってきたものだけを着ていました。食べ物もなにか贅沢なものが食べたいとかも何もなかったです。
もっともイキイキする話題は教育。地域社会への貢献。たまに体調がわるいときわけのわからんことをいっていましたが、地域をどうよくしていくのか。そういう話をしていました。 いつも外に目が向いていました。
自分が登校拒否で学校を行かなくなって以降の24年間。それまで厳しく、あれをしなさい。これをしなさい。と叩いていた祖父は、一度として自分に対してそういうようなことはいわなかったです。
ただ聞いてくれるだけの祖父に自分は調子にのって勝手なことを気持ち良く話していたこともありました。 そんな時でもただ笑って。全部まるごと受け止めてくれました。自分はこのことに最大限の尊敬と愛情を祖父に感じています。 なかなかできることではないです。本当にすごい。
今一番涙をださせる思い出は。 2人でサングラスをかけて赤い車でブーブーと走り慣れた道を、知らない道をどこまでもドライブしている思い出です。 ドライブ大好きやったおじいちゃんと僕は今でもどこかで走っているのかなと思います。 どこまでも、どこまでも。
晩年、おそらく自分にだけみせてくれた、「ドライブいこか?」のボディーランゲージが。かわいくてしょうがなかった。おちゃめで魅力的だったおじいちゃんが忘れられません。 ドライブ中にだけ歌ってくれていた自作の「高田屋嘉兵衛の歌」が忘れられません。。。
おじいちゃんの想い出が溢れ出てきます。
おじいちゃん。 俺のおじいちゃん。
水分取るとようむせてたおじいちゃん。
褒めてくれたおじいちゃん。
手紙をオーストラリアとだけ書いて送れるとおもって書いてくれたおじいちゃん。
サンドイッチと肉まん、缶コーヒー、ミルク飴が大好きやったおじいちゃん。
水分不足で泡吹いて2度ほど気絶したおじいちゃん。
80代終わり、勇ましく教育委員会の関係で講演会にでていくおじいちゃん。
人前で話すのが苦手な自分に、でまかせいうてたらええんやって到底使えそうもない知恵をくれたおじいちゃん。
車で神社を通り過ぎる時必ず手を合わせていたおじいちゃん。
手を叩いて音頭をとるのが好きなおじいちゃん。
どんな小さなことにも「おおきに!」っていっていたおじいちゃん。
ごはんやでーというと元気に「はい!」っていっていたおじいちゃん。
飼い猫が寄ってくると杖で追い払っていたおじいちゃん。
スポーツドリンクを飲んでもらうといつも「うまい!」っていっていたおじいちゃん。
パジャマ姿で社会の窓開けっ放しでドライブに出かけるおじいちゃん。
足がもつれてこけたときに受け身がやたらうまかったおじいちゃん。
うどん屋に入った時にやたら殺気をはなっているお客さんがいて、注文したうどんを二口しか食べられず出たこと。その後も忘れっぽいのにずっとそのことは覚えていたおじいちゃん。
買い物にいくときは必ずお金あるか?って聞いてくれたおじいちゃん。
銭湯に何度も一緒にいってくれたおじいちゃん。
冬場、軽トラの中で暖をとっていたおじいちゃん。
全部。全部。 はーーーーーー、、、、
愛おしいくてたまらん。 大好きやで。もっと伝えたらよかった。 ええかっこせんと。 伝えたらよかった。
もう一回話したい 話したい。
ありがとう。ありがとう。 ほんまおおきにな。。 また絶対会おうな。 そう思わんとやってられんわ。
完璧な最後を見せてくれた祖父。
「素直さとお前の持っている宝を活かして社会に貢献しいよ」
と亡くなる3週間前に言ってくれました。
周りの身近なことがどんどん変わっているのを感じます。
これからも祖父は心の中で生き続けます。 一緒に生きていきます。
本当に長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
祖父と私たち家族に関わってくださった全ての方々に心の底から感謝いたします。
本当にありがとうございました。